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5-26 母と娘 2

last update Last Updated: 2025-04-01 19:23:40

やがて車は朱莉の住む億ションへと到着した。

車から降りた朱莉の母はその余りの豪勢な億ションに驚いていた。

「朱莉……。貴女、こんな立派な家に住んでいたの?」

「う、うん。そうなの」

朱莉は少しだけ目を伏せる。

(ごめんね……お母さん。ここは私の家じゃないの。将来的には翔先輩と明日香さんが2人で一緒に暮らす家なの)

「朱莉? どうかしたの?」

母は朱莉の様子に異変を感じ、声をかけると琢磨が即座に話しかけてきた。

「あの、それでは私はこれで失礼いたしますね。直に副社長もいらっしゃると思いますので」

「まあ、ここでお別れなのですか? どうも色々と有難うございました。え……と……?」

朱莉の母が言い淀むと琢磨が笑みを浮かべる。

「九条です。九条琢磨と申します」

「九条さんですね? 本当に今日はお迎えに来ていただき、ありがとうございました」

「いいえ、とんでもございません。それではまた何かありましたらいつでもご連絡下さい。それでは失礼いたします」

そして琢磨が背を向けて車に戻ろうとした時。

「九条さん」

朱莉が琢磨に声をかけた。琢磨が振り向くと、そこには笑みを称えた朱莉が見つめていた。

「九条さん。本当に今日はありがとうございました」

「! い、いえ……」

琢磨は視線を逸らせると、まるで逃げるように車に乗り込み、そのまま走り去って行った。

「どうしたんだろう……? 九条さん。あんなに急いで帰って行くなんて」

「秘書のお仕事をされているそうだから忙しいんじゃないかしら?」

「うん。そうだね」

(今度九条さんに何かお礼をしないと……)

朱莉は母に声をかけた。

「お母さん、それじゃ私の住まいに案内するね」

****

 エレベーターに乗り、玄関のドアを開けるまで、朱莉はずっと不安だった。母から今週外泊許可が下りたという話が出てから、翔が朱莉と一緒に住んでいるかと思わせる為の痕跡づくりに奔走していた。

朱莉はお酒を飲むことは殆ど無いが、ウィスキーやワインを買って棚にしまったり、ビールのジョッキやカクテルグラスも用意した。

さらに男性用化粧水やシャンプー剤を取り揃え、何とか母にバレないようにする為に必要と思われるありとあらゆる品を買い、まるでモデルルームのようにすっきりしている部屋も大分生活感溢れる部屋へと変わっていたのだ。

「さあ、お母さん。着いたよ、中に入って」

朱莉は自分の部屋に
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    「明日香、大丈夫か!?」翔は玄関で靴を脱ぎ捨てるように部屋の中へ駆け込むと、リビングのソファに倒れ込んでいる明日香の姿を発見した。(明日香っ!!)「明日香! 明日香! しっかりしろ!」慌てて助け起こすと、明日香はぼんやりと目を開けた。「あ……」明日香は激しい呼吸を繰り返し、息を吸い込もうとしている。(過呼吸の発作だ!)咄嗟に気付くと、明日香に声をかけ続けた。「明日香……落ち着け……ゆっくり息を吐いて呼吸するんだ……そう、その調子だ……」明日香を抱き締めながら、暗示をかけるように明日香の耳元で繰り返し言う。やがて、明日香の呼吸が安定してくると、翔は身体を離した。「明日香……今水を持って来るから待ってろよ?」ウオーターサーバーから水を汲んでくると、翔は明日香を支えて水を飲ませた。明日香はゴクゴクと水を飲み干すと、ようやく息を吐いて翔を見つめる。「明日香……一体どうしたんだ? 家政婦さんはまだなのか?」翔は明日香の隣に座ると尋ねた。「突然今日やって来てくれる家政婦が発熱したらしくて今夜は来れなくなってしまったそうなの……」「そうなのか……?」「だから……今夜は1人になってしまうかと思うと怖くなって、それで発作が……」明日香は翔にしがみ付くと叫んだ。「ねえ! 翔……何処にも行かないでよ! お願い……私の側にいて……独りぼっちにさせないでよ! 1人は嫌……怖くてたまらないの……!」そして肩を震わせながら翔の胸に顔を埋めた。(明日香……)「分かったよ、明日香。安心しろ……。ずっとお前の側にいるから……」翔は明日香の髪を優しく撫でた。「本当に……? 本当に側にいてくれるのね?」明日香は眼に涙を浮かべながら翔を見つめる。「ああ、勿論側にいるよ。朱莉さんにはお母さんもいることだし、大丈夫だろう。それにやっぱり親子水入らずにさせてあげるべきかもしれないしな。今朱莉さんに電話を入れるよ」翔はスマホをタップしたが、一向に朱莉は電話に出なかった。「おかしいな……? 何で出ないんだろう?」翔は首を傾げた。「何?朱莉さん…電話に出ないの?」明日香は翔を見ると尋ねた。「ああ……そうなんだ。こうなったら直接朱莉さんの所へ行って来るか。明日香、悪いけど少しだけ留守番をしていて貰えるか? すぐに帰って来るから」「ええ……分かったわ。で

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    (え……? 鳴海……翔……? この顔、以前何処かで見た気がする。でも……一体何処で……?)その時、朱莉が声をかけてきた。「あの、それじゃ食事の準備が出来たので皆で食べましょう?」「ああ、そうだね。へえ~すごく美味しそうだ」琢磨は笑顔で食卓に着くと、朱莉は顔を赤らめて翔の隣に座った。そんな様子を見て洋子は思った。(朱莉はこの男性のことが好きなのね。でも何故かしら? 私としては病院迄来てくれた男性の方が好ましいと思うけど……)食卓にはシチューとマッシュルームとベーコンのバターライス、サーモンとアボガドのサラダが用意されていた。朱莉は生れて初めて、翔を交えた母と3人の食卓を囲んだ。朱莉の胸は幸せで一杯だった。ずっと片思いをしていた翔と、そして大好きな母と3人で今、こうして食事をしているのが、まるで夢のようだった。翔は始終優しい笑顔で朱莉と、朱莉の母に自分の趣味や仕事のことを話して聞かせてくれた。やがて食事も終わり、洋子は奥のリビングで休んでいた。そして朱莉が片づけを始め、翔が手伝おうとしていたその時……。突然翔のスマホが鳴り響いた。それを手にした翔の顔色が変わったのを朱莉は見逃さなかった。「翔さん……その電話、明日香さんからじゃないですか?」朱莉は翔に尋ねた。「あ、ああ……。そうなんだ……」翔は困ったように朱莉を見た。「どうぞ、電話に出てあげてください。明日香さん、何か困ったことが起きてるかもしれませんし」「あ、ああ……すまない。朱莉さん」言うと翔はスマホを手に取った。「もしもし……。明日香? どうした? おい、明日香! 返事をしろっ! ……くそっ!」その声にリビングで休んでいた洋子も何事かとやって来た。翔は電話を切ると朱莉に向き直った。「すまない。朱莉さん。……明日香の返事が返ってこないんだ。何かあったのかもしれない……。本当に申し訳ないが……」「ええ、私なら大丈夫です。どうぞ明日香さんの元へ行ってあげて下さい」朱莉の言葉に洋子は驚いた。「え!? 明日香さんて……一体誰のことなの!?」すると翔は頭を下げた。「お母さん……本当に申し訳ございません。明日香が苦しんでいるのです。すみませんが、彼女の元へ行かせて下さい!」そして頭を下げると、朱莉の方を振り向いた。「朱莉さんも……本当に……ごめん!」翔は上着を掴むと足早

  • 偽りの結婚生活~私と彼の6年間の軌跡 偽装結婚の男性は私の初恋の人でした   5-27 急変 1

    「ほら、お母さん。この子がペットのネイビーよ?」朱莉は笑顔でネイビーを抱きかかえると洋子に触らせた。「まあ! 何て可愛いのかしら……フフフ」洋洋子は笑顔でネイビーを撫でながら、朱莉の顔をチラリと見た。(朱莉……貴女はいつもこんなに広い部屋で一人ぼっちで暮していたの? もしかして貴女の結婚て何か意味があるの? どうして何も説明してくれないのかしら……?)「どうしたの? お母さん。さっきから私の顔をじっと見て……」「あ、いいえ。何でもないの。ただ病院以外で朱莉の顔を見るのは久しぶりだと思って」「そんなことだったの? 嫌だなあ。お母さんたら。今日外泊出来たってことは大分身体が良くなったってことでしょう? きっとこれからも外泊出来る日が増えてくるに決まってるんだから。ね?」「え、ええ。そうね」洋子は曖昧に笑ったが、実際は体調が良くなったというわけでは無かったのだ。朱莉のことがどうしても心配で、無理を言って1泊だけ外泊許可を病院から貰ってきたのであった。「それじゃお母さんはリビングで休んでて。すぐに夕食の準備をするから」「ええ、分かったわ。それじゃお言葉に甘えて休ませてもらうわね」朱莉が台所で料理をする音を聞きながら洋子はリビングへ向かった。リビングルームもとても広く、置かれた家具はどれも上質の物ばかりだったが、その全てが洋子の目には作り物の……まるでモデルルームのようにしか見えなかった。この部屋には、若い新婚夫婦の甘さ等一切無い、冷たく冷え切った部屋にしか感じられなかったのだ。(朱莉……貴女……本当に大丈夫なの……?)洋子は食事が出来るまでリビングで休みながら、娘の身を案じて心を痛めていた。鳴海翔……。洋子はその名前を何処かで聞いた覚えがあった。でも……それはいつのことだったのだろう? だが、大切な一人娘をこのような孤独な境遇に置くなんて。きっと冷たい人物に違いない。そしてそれとは逆に秘書を務めているという琢磨のことを考えていた。(ああいう男性だったなら安心して朱莉を任せることが出来るのに……世の中はうまくいかないものなのね……)やがて、洋子がウトウトしかけていた時、朱莉の声が聞こえてきた。「お母さん……大丈夫? 今シチューが出来たんだけど」「ああ……ごめんなさいね。うっかり眠ってしまったみたいで」「ううん、いいのよ。それでど

  • 偽りの結婚生活~私と彼の6年間の軌跡 偽装結婚の男性は私の初恋の人でした   5-26 母と娘 2

    やがて車は朱莉の住む億ションへと到着した。車から降りた朱莉の母はその余りの豪勢な億ションに驚いていた。「朱莉……。貴女、こんな立派な家に住んでいたの?」「う、うん。そうなの」朱莉は少しだけ目を伏せる。(ごめんね……お母さん。ここは私の家じゃないの。将来的には翔先輩と明日香さんが2人で一緒に暮らす家なの)「朱莉? どうかしたの?」母は朱莉の様子に異変を感じ、声をかけると琢磨が即座に話しかけてきた。「あの、それでは私はこれで失礼いたしますね。直に副社長もいらっしゃると思いますので」「まあ、ここでお別れなのですか? どうも色々と有難うございました。え……と……?」朱莉の母が言い淀むと琢磨が笑みを浮かべる。「九条です。九条琢磨と申します」「九条さんですね? 本当に今日はお迎えに来ていただき、ありがとうございました」「いいえ、とんでもございません。それではまた何かありましたらいつでもご連絡下さい。それでは失礼いたします」そして琢磨が背を向けて車に戻ろうとした時。「九条さん」朱莉が琢磨に声をかけた。琢磨が振り向くと、そこには笑みを称えた朱莉が見つめていた。「九条さん。本当に今日はありがとうございました」「! い、いえ……」琢磨は視線を逸らせると、まるで逃げるように車に乗り込み、そのまま走り去って行った。「どうしたんだろう……? 九条さん。あんなに急いで帰って行くなんて」「秘書のお仕事をされているそうだから忙しいんじゃないかしら?」「うん。そうだね」(今度九条さんに何かお礼をしないと……)朱莉は母に声をかけた。「お母さん、それじゃ私の住まいに案内するね」**** エレベーターに乗り、玄関のドアを開けるまで、朱莉はずっと不安だった。母から今週外泊許可が下りたという話が出てから、翔が朱莉と一緒に住んでいるかと思わせる為の痕跡づくりに奔走していた。朱莉はお酒を飲むことは殆ど無いが、ウィスキーやワインを買って棚にしまったり、ビールのジョッキやカクテルグラスも用意した。さらに男性用化粧水やシャンプー剤を取り揃え、何とか母にバレないようにする為に必要と思われるありとあらゆる品を買い、まるでモデルルームのようにすっきりしている部屋も大分生活感溢れる部屋へと変わっていたのだ。「さあ、お母さん。着いたよ、中に入って」朱莉は自分の部屋に

  • 偽りの結婚生活~私と彼の6年間の軌跡 偽装結婚の男性は私の初恋の人でした   5-25 母と娘 1

    「お母さん、迎えに来たよ」朱莉は笑顔で母の病室へとやって来た。「あら、朱莉。早かったのね。でも嬉しいわ。貴女と一緒に1日過ごせるなんて何年ぶりかしらね?」洋子はもうすでに外泊の準備が出来ていた。いつものパジャマ姿では無く、ブラウスにセーター、そしてスカート姿でベッドの上に座り、朱莉を待っていたのだ。朱莉の後ろから琢磨が病室へと入って来ると挨拶をした。「初めまして。朱莉さんのお母様ですね。私は……」すると洋子が目を見開いた。「まあ! 貴方が翔さんですね? 初めまして、私は朱莉の母の洋子と申します。いつも娘が大変お世話になっております」「お母さん、待って、違うのよ。この方は……」挨拶をする洋子を見て朱莉は慌てると、琢磨が自己紹介を始めた。「私は鳴海副社長の秘書を務めている九条琢磨と申します。本日は多忙な副社長に代わり、お迎えに上がりました。どうぞよろしくお願いいたします」そして深々と頭を下げた。「まあ、そうだったのですね? 申し訳ございませんでした。私ったらすっかり勘違いをしておりまして」洋子は自分の勘違いを詫び、頬を染めた。「いえ、勘違いされるのも無理はありません。それでは参りましょうか? お荷物はこれだけですか?」琢磨はテーブルの上に置かれているボストンバックを指さした。「はい。そうです」洋子が返事をすると、琢磨はボストンバックを持って先頭を歩き、朱莉と恵美子がその後ろに続いて並んで歩く。洋子が朱莉に小声で囁いた。「嫌だわ……私ったらすっかり勘違いをしてしまって」「いいのよ、お母さん。だって分からなくて当然よ」朱莉は笑みを浮かべる。「え、ええ……。そうよね。でも……改めて鳴海って苗字を聞くと、何処かで聞き覚えがある気がするわ」洋子は首を傾げたが、朱莉はそれには答えずに話題を変えた。「ねえ、お母さん。今夜はね、お母さんの好きなクリームシチューを作るから楽しみにしていてね?」「ありがとう。朱莉」****「今、正面玄関に車を回してくるので、こちらでお待ちください」琢磨は朱莉と洋子に言うと、足早に駐車場へと向かっていく。その後姿を見送りながら、洋子が朱莉に言った。「あの九条さんと言う方……すごく素敵な方ね?」「うん。そうなのよ。だけど今はお付き合いしている女性がいないみたいなの」「そうなのね。誰か好きな女性でも

  • 偽りの結婚生活~私と彼の6年間の軌跡 偽装結婚の男性は私の初恋の人でした   5-24 お迎え 2

    「あの…九条さん、本当に車を出していただいてよろしいのでしょうか?」朱莉の躊躇いがちな言葉に琢磨は我に帰った。「勿論だよ。俺は翔の秘書だからな。朱莉さんのお母さんに挨拶するのは当然だと思っているし、翔が病院まで迎えに行けないのなら、俺が行くのは当たり前だと思ってるよ」自分でもかなり滅茶苦茶なことを言ってるとは思ったが、琢磨は少しでも朱莉の役に立ちたかった。「そこまでおっしゃっていただけるなんて光栄です。それに翔さんにも感謝しないといけませんね」朱莉が笑みを浮かべながら、翔の名を口にした事に琢磨の胸は少しだけ痛んだ。「それじゃ、行こうか? 朱莉さんも乗って」琢磨は朱莉を車に乗るように促した。「お邪魔します」朱莉が助手席に乗り込むと、琢磨も運転席に座りシートベルトを締める。「よし、行こう」そして琢磨はアクセルを踏んだ―—****「九条さんはお休みの日はもしかしてドライブとか出掛けたりするんですか?」車内で朱莉が尋ねてきた。「うん? ドライブか……。そうだな~月1、2回は行くかな? 友人を誘う時もあるし、1人で出かける時もあるし……」「そうなんですか。やはりお忙しいからドライブもなかなか出来ないってことですか?」「いや。そうじゃないよ。俺は休みの日はあまり外出をすることが無いだけだよ。大体家で過ごしているかな。好きな映画を観たり、本を読んだり……。月に何度も出張があったりするから家にいるのが好きなのかもな」「そうですか……。私は普段から自宅に居ることが多いからお休みの日は出来るだけ外出したいと思っているんです。だから、実は今度翔さんに教習所に通わせて貰おうかと思っているんです。それで免許が取れたら車を買いたいなって……。あ、も、勿論車は翔さんから振り込んでいただいたお金で買うつもりですけど」朱莉の話に琢磨は目を見開いた。「朱莉さん……何を言ってるんだ? 車だって翔のお金で買えばいいじゃないか。何度も言うが、朱莉さんは書類上はれっきとした翔の妻なんだから。もし車を買いたいってことが言いにくいなら俺から翔に伝えてあげるよ。それに……外出をするのが好きなら俺でよければ……」そこまで言うと琢磨は言葉を飲み込んだ。「え? 九条さん。今何か言いかけましたか?」「い、いや。何でもないよ。ほら、朱莉さん。病院が見えてきたよ」琢磨はわざと明

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